桃月書房

しょうもないことを書きます

休校20日目 - 3/23(月) コンテンツをオワコン認定する人の思考

今日は私の好きな漫画とコンテンツをオワコン呼ばわりする人の思考について話したいと思います。ちょっと今日は脳死で書いてるので散文というレベルでなく読みづらいですがご了承ください。

#私を構成する5つの漫画

というタグがTwitterのトレンドに入っているのを見つけました。
私を構成する5つの漫画はこれです。

上3つは有名漫画アプリcomicoで連載されている/いた漫画です。下2つは百合です(迫真)

comico

comicoは中学時代の私の青春でした。実は当時私の家は(面倒だという理由で)家庭にインターネット環境(Wi-Fi)がなく、私のインターネットはスマートフォンのモバイルデータ通信が全てでした。そのような環境で、動画は通信量が多いためWi-Fiのある環境でしか視聴できず、私が主に楽しんでいたコンテンツは漫画…というよりcomico漫画でした。

などなど全部読んだものからちょっとしか読んでないものまで本当にたくさんの作品を読みました。今もそうなのかな?当時comicoは漫画の更新が決まって何故か前日の22:52あたりだった(一応23時更新ということだったんだと思う)ので、22時50分あたりからリロードしまくってサーバに負荷をかける儀式をしていました。

ReLIFEは27歳の社畜サラリーマン・海崎新太が、見た目が若返る薬を飲んで1年間高校生として生活しながら実際の高校生と交流する中で大切なものを取り返していく、comicoで一番有名となった作品であり、土曜更新でした。

ももくりはかわいい系男子高校生・桃月心也に一目惚れしたちょっと変態な女子高校生・栗原雪の“一途でゆるくてちょっと残念なラブコメ”でたしか金曜更新でした。もうお気づきかもしれませんが、私のハンドルネーム「ももつきゆきや」のももつきはこの作品の主人公の一人桃月心也(ももくん)から来ています。私はイタいオタクです。

comicoはオワコンなのか

本当に大好きな漫画が多かった。当初comicoはTOPページや各話リストにちょっと広告を載せるのみで閲覧は完全無料という神アプリでした。作品もcomicoオリジナル作品しかなく、独自性がありました。しかしそれで採算が合う訳もなく、徐々にポイント制やCMの導入、レンタルチケットシステムの導入などが相次ぎ、ユーザーからは批判の声が上がりました。正直絶対に採算は取れていなかったので仕方のない部分もあったのですが、他社のアプリと比べても極めて見づらく使いづらい仕様にどんどん変わっていってしまったのが残念でした。ももくりReLIFEといった最初期からの作品も完結していく中、「○○が終わったらアプリ消すわ」というユーザーも極めて多く、さらには運営によるいくつものクリエイター軽視問題や劣悪な原稿料、体調不良で休載する作家の続出…などユーザーたちからの運営への不信感も募っていました。

最初は完全オリジナル作品のみでスタートしたcomicoは他社の作品の掲載も多くなっていき、それが最初期の「comicoらしさ」が失われていった要因の一つであったと当時ユーザーであった私は考えます。

ひさしぶりにcomicoを開いたりするとあの時のcomico感が本当になくて知らない漫画ばっかりで、何個か最初期から続く漫画の連載が続いていたりします。しかし今でも賑わっています。

私は思います。「もう昔の輝きはないなぁ。オワコンなのかなぁ。」

しかしそれは違います。

comicoは決してオワコンになったわけではありません。変わっていっただけなのです。

我々のような一度離脱した人間にとって、その場所の印象というのは貼り付いていた当時の古い風景でしかありません。しかし漫画というのは終わりがくるものであり、数年ぶりに訪れればいくつもの作品が完結していて、新しい作品で埋め尽くされている…というのは当然のことですから、久しぶりに訪れた時の風景が自分の持っていた印象と違うのも当然ですし、それで寂しい気分になるのは仕方のないことなのです。

またオリジナル作品だけであったプラットフォームの作品ラインナップが他社作品とごちゃまぜになっていったのだとしても、今もcomicoに残っているユーザーたちは受け入れているのです。ユーザーが一人もいなくなったなら間違いなくcomicoは「落ちた」と言えるでしょうが、今も残っている人が満足しているならそれでいいのです。外野にとやかく言われることではないし、オワコンだオワコンだと批判される筋合いもないのです。

何が言いたいのかと言うと、決してオワコンになったわけではなく、移り変わっていった今のcomicoを知らないだけであり、新しい今の状態をアップデートされていない過去の記憶と比較して勝手に寂しくなっているというだけだということです。

いや、過去のそれが好きだった人は変わっていってしまったそれを寂しく思うのは当然だと思うのですが、それは「落ちた」わけではなく「変わっていった」のだということは忘れてはならないと思うのです。

niconicoをオワコン認定する人たち

何でここまで語れるかと言うと、niconicoをオワコン認定する人類はこういう気持ちなんだろうなぁと思ったからです。私はニコニコを愛しており、日々楽しんでいますが(私が新参であるため4年以上前のニコニコを知らないというのもありますが)、今のニコニコをオワコンだとは思っていませんし、ニコニコにしかない文化がたくさんあると思っています。ところが、ニコニコをオワコンだと言う人達は大勢います。

でも今の私にはその気持ちがわかります。コンテンツをオワ認定する人類はそのコンテンツを楽しんでいた過去のそれ イコール そのコンテンツの全てだと勘違いしているということです。

どんなコンテンツも移り変わります。正直私だって(仮)や(原宿)の時代の良さが今も全て残っているかと言ったらそうではないことぐらい理解しています。しかしニコニコだって流行する文化は変わります。ルーズソックスが過去の流行であるように、街行く若者がナウでヤングでチョベリグではないように、ネットの空気も文化も必ず移り変わります。良かったものが次第に廃れて空気が変わっていってしまうことは、たまらなく辛いし苦しいし悲しいかもしれないけれど、全く悪いことではないのです。

何が言いたいのか

ちょっと深夜にあまりに脳死の状態で長文を書きすぎたのでもうよくわかんなくなってきました。つまり何が言いたいのかというとこういうことです。

  • 「A」というコンテンツをオワ認定する人類は「A」の過去の状態しか知らず、「A = 過去の状態のそれ」だと思いこんでいる
  • だから移り変わって過去の状態が失われた「A」のことを「落ちた」と感じる
  • 移り変わった今の「A」を好きでいてくれる人がたくさんいるなら、決して「A」はオワコンではない
  • オワコン判定する人類に惑わされず、お前はお前の好きを信じろ

だから私は過去しか知らずついていけなくなって今を知らないcomicoのことをオワコン呼ばわりすることはこれから絶対に無いし、今を最大限楽しめているniconicoのことをオワコン呼ばわりする「ついていけなくなった」人たちの言葉に傷つけられる必要もありません。

なんかしまりがなくなってしまいましたが、そういうことです。私が言いたいのはそんな感じのことです。

総括

comicoの好きだった漫画の話や百合漫画の話はまたいつかもしたいと思っています。どう森の話も。ロヂウラくらしは今でも連載してるんですけど、comicoを開かなくなってから読んでません。大好きな漫画なのでまた追いはじめようと思っています。